
大叔父の足跡をたどって。特攻隊「〇四艇」と早町の製菓店|筆とまなざし#454
成瀬洋平
- 2026年03月05日
喜界島の特攻隊「〇四艇」
スギラビーチのキャンプ場を拠点にして、喜界町役場を訪れた。飛行場や港のある湾(わん)が島で一番大きな集落で、町役場もここにある。スギラビーチからは歩いて30分ほどである。
事情を話すと、企画観光課の職員が島の歴史に詳しい観光ガイドの外内さんという方を紹介してくれた。さっそく電話をしてみる。とても快活かつ親切な方で、どこの誰かもわからない人間からの急なお願いにも関わらず、明日の17時ごろお会いできることになった。
役場の近くには図書館があり、郷土資料にあたる『喜界町誌』によると、喜界島に海軍の不時着飛行場ができたのは、満州事変の起きた1931年。太平洋戦争が始まり、戦局が悪化した1944年5月には飛行場拡張工事が行われた。昭和20年、沖縄戦が始まると喜界島は沖縄へ向かう特攻機の中継基地となり、同時に本土防衛の最前線基地となった。昭和20年1月22日に初めての空襲があると、米軍の爆撃が激化していく。
日本軍は喜界島全体に15の部隊を駐屯させていた。そのうち特攻隊は2部隊で、島の北東に位置する早町を拠点にする安藤部隊と、北部の小野津を拠点にする後藤部隊があった。上陸を伺う敵艦隊に対し、「〇四艇」で体当りする特攻隊として待機した。大叔父はそのどちらかにいたはずだ。メモを取りながら、島の地図を描いて部隊の拠点を記す。その瞬間にはっとした。大叔父は生前、喜界島の製菓店から黒糖を取り寄せていた。そのお店が、早町にあったのだ。
大叔父が黒糖を取り寄せていた、早町の製菓店へ
翌日、朝一番のバスに乗って早町へ向かった。湾からバスで約30分、島のほぼ反対側に位置する。バスはどこでも上下車でき、アナウンスがないのでどこを走っているのかわからない。Googleマップで現在地を確認するか、運転手にあらかじめ伝えておくとよい。乗車賃はどこで乗り降りしても一回300円。運転手さんによると、町から補助が出ているからこの乗車賃でやっていけるのだという。
早町は小さな港のある集落だった。バスに乗っているときに外内さんから着信があったので折り返す。
「今日、17時ごろって言っていましたが、もう少し早くできませんか? もしかしたら、ピンポイントで大叔父さんのことがわかるかもしれません」
帰りのバスの時間を調べ、16時に湾のAコープで待ち合わせることにした。
バス停の近くに「震洋格納壕跡」があった。山の斜面に掘られていて、いまは入り口が石垣で閉じられているけれど、奥行きは50メートルもあったらしい。近辺には数カ所に格納壕があり、50艇の「震洋」が格納されていた。「震洋」は長さ5メートルほどのモーターボートで、町誌に書かれていた「〇四艇」とはこのことだとわかった。このボートに飛行機と同じ250キロ爆弾を積んで敵の戦艦に体当たりする。つまりこの小さなボートが特攻兵器だったのである。では、なぜ喜界島に「震洋」が配備されたのか。
米軍は沖縄を占領すると、九州、本州への上陸の足がかりとして、まず喜界島に上陸する計画が進められていた。航空写真によって島の地理や日本軍の施設、兵器が詳細に調べられ、兵士18万3000人、戦艦1500艘、艦載機2000機という大規模な計画が練られていたという。「震洋」は、その圧倒的な米艦隊に特攻攻撃するためのものだった。ちなみに、町誌によると安藤隊の隊員は95名、後藤隊はわずか40名だったという。
黒糖をとおしてつながる、世代を超えた出会い
海岸沿いの道を歩き、大叔父が黒糖を取り寄せていた製菓店を目指した。Googleマップでは「閉業」となっている。住宅の隣に店舗らしき建物はあるが看板はない。
「このお宅の方ですか?」
近くを散歩していた若い女性に話しかけると「うん」と頷いた。ほどなくして、おばあさんがやってきた。事情を話すと、大叔父に黒糖を送ったことを覚えてくれていた。
「4年前に主人が亡くなって、お店は閉めてしまったんです」
おばあさんと立ち話をしていると、若い女性がもう1人の女性を呼んできてくれた。
「ああ、成瀬さん! 覚えていますよ。まあ、よく遠くまで来てくださいました」
おばあさんの娘さんで若い女性のお母さんだった。大叔父に倣ってぼくの父もこのお店から黒糖を取り寄せていたのだが、発送作業の折、父と手紙のやり取りをしてくれていたのだった。
「お店を閉めたときに家も引き払おうと思ったんですけど、ここにいて良かった。こんな出会いがあるなんて」
お母さんの目に見る見る涙が溜まってきた。
「父も喜んでいると思います。それにしても、大叔父さんの足跡をたどるなんて、よっぽど素敵な大叔父さんだったんですね」
別れ際に黒糖とお茶をいただいた。喜界島に来て良かった。しかし、この後さらに奇跡的な出会いがあることなど、そのときのぼくには知る由もなかった。
著者:ライター・絵描き・クライマー/成瀬洋平
1982年岐阜県生まれ、在住。 山やクライミングでのできごとを絵や文章で表現することをライフワークとする。自作したアトリエ小屋で制作に取り組みながら、地元の岩場に通い、各地へクライミングトリップに出かけるのが楽しみ。日本山岳ガイド協会認定フリークライミングインストラクターでもあり、クライミング講習会も行なっている。

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