
大叔父の足跡をたどって~その3~当時の大叔父のことを知る、上山さんが語る戦争の記憶|筆とまなざし#456
成瀬洋平
- 2026年03月18日
大叔父が引き合わせてくれたに違いない、運命的な出会い
バスは定刻どおり湾のAコープに到着し、外内さんとはすぐに会うことができた。
「いま、上山さんから電話があって、成瀬さんと会ったって。お会いする時間を早くしたのは、上山さんのお宅に伺うためだったんですよ。上山さんからいただいた特攻隊員の名簿に大叔父さんの名前があって、これは上山さんしかいないと思ったんです。いちばん会うべき人にもうすでにお会いしているとは!……不思議なことがあるもんですね」
外内さんの車で、いましがたバスで通ってきたばかりの道を戻り、小野津にある上山さんのお宅に向かった。御歳92歳の上山さんは戦時中のことを知る生き字引で、外内さんも上山さんから当時のことを教えてもらっているそうだ。
上山さんのお宅は入り組んだ細い道の先にあった。さっき別れたばかりの上山さんご夫婦にこんなにもすぐにお会いすることになるとは、なんというめぐり合わせだろう。
「成瀬さんが天国から導いてくれたとしか思えないね。まだ知っている人が生きているよ、会えるよってね」
庭のテーブルにたくさんの資料が乗せられていた。真っ先に上山さんが見せてくれたのは、「第111震洋特別攻撃隊」と書かれた後藤隊の名簿だった。32名のなかに、確かに大叔父の名前があった。終戦から50年を経た平成7年、後藤隊員だった人々が島で集まる催しがあった。名簿はそのときに作られたものらしい。大叔父はそのときに島へは来ていないようだった。大叔父が配属されていたのは飛行機ではなく、小さなモーターボート「震洋」による特攻部隊だった。
当時を経験した上山さんの口から語られる、大叔父と戦争の記憶
喜界島が初めて空襲に見舞われたのは昭和20年1月22日。当時小学5年生だった上山さんは、学校の授業で同級生といっしょに農具を持って広場に集まっていた。遠くから18機の飛行機が編隊を組んでやってきた。初めは友軍機だと思ったが、上山さんは二手に別れた飛行機に違和感を覚えた。次の瞬間、低空飛行してきた飛行機が機銃掃射を始めた。上山さんは農具を捨てて逃げたら親に怒られると思い、農具を握りしめたまま自宅の防空壕へ走った。となりの家に住む、尼崎から疎開に来ていた男の子は家の防空壕に逃げ込んだ。しかし、そこに爆弾が炸裂した。農具を持っていて早く走れなかったことが幸いした。上山さんは別の家の防空壕に逃げ込んで九死に一生を得た。
後藤隊、つまり大叔父が小野津にやってきたのは初空襲から2カ月経った3月のことだった。
「整備兵のなかには柄の悪い連中もいたけれど、特攻隊の人たちはみんなピシッとしていて規律正しくて、頭が良くて、優しくて。立派な紳士でしたね。いっぱい可愛がって遊んでもらいました。私も大きくなったらこうなりたいなぁっていう、憧れの存在でした」
大叔父は当時20歳。一番若い隊員は17歳で、後藤部隊長ですら24歳の若さだった。特攻隊員は民家を借りて兵舎にしていたという。
「兵舎は5軒あって、成瀬さんは内田さんの上、重田さんの家にいました。いまはもう屋敷はなくて空き地になっていますが、大きな家でした」
3月になると喜界島への空襲は急増した。小野津はそれほど大きな空襲に見舞われなかったが、5月5日に大規模な機銃掃射があった。生前、大叔父が話してくれたグラマン機の話は、きっとこのときのできごとだろう。
小野津でも早町と同じように震洋の格納壕が掘られたが、落盤事故が起きて死者が出た。地盤が弱くて使えないため、250キロ爆弾を積んだままの特攻艇は、集落の近くの岩が入り組んだ森のなかに隠された。
6月23日、沖縄が米軍に制圧されると、本土上陸の次の足がかりとされたのが奄美地方だった。兵士18万3000人、戦艦1500艘、艦載機2000機の大規模な軍事作戦が計画されていたという。日に日に敵軍の影が大きくなってゆくなかで、大叔父たちは明日来るかもしれない出撃命令をただひたすらに待っていた。その間、5ヶ月。どんな心持ちですごしたのかは計り知れない。
「国のために死ぬんだという覚悟をしてきている人たちだから、非常に優しかったね。ビールはアサヒ、タバコは光。特攻隊員には特別な配給がありました。『貴様と俺とは同期の桜』とか、軍歌を歌ってね。ひたすらに、国のために、天皇陛下のためにという一心だったでしょうね」
上陸作戦は行なわれないままときはすぎ、ヒロシマ、ナガサキに原子爆弾が落とされた。震洋隊の待機命令は8月14日に突然解除され、15日の午前中に島を離れるように命令が出た。そして正午、玉音放送がラジオから流れた。
大叔父がいつ喜界島を離れ、どうやって生まれ故郷に帰ってきたのかはわからない。町誌によれば、10月2日に喜界島守備隊に対して米軍から武装解除が命じられ、全兵器が押収されて沖合の海中に投棄された。翌日から米軍が上陸し、7日に喜界島を撤収した。アメリカの統治下となった奄美地方の島々が日本に返還されたのはそれから8年後、昭和53年12月25日のことだった。
陽が傾き、肌寒くなる時間まで、上山さんと外内さんはお話を聞かせてくださった。上山さんに「写真を撮らせてください」と言うと、倉庫の奥から大事そうに白い帽子を持ってきた。
「みんなこれを被ってたんですよ。大人になってから見つけて、買ったんです」
それは、桜と錨がデザインされた海軍ワッペンのついた水兵帽だった。
著者:ライター・絵描き・クライマー/成瀬洋平
1982年岐阜県生まれ、在住。 山やクライミングでのできごとを絵や文章で表現することをライフワークとする。自作したアトリエ小屋で制作に取り組みながら、地元の岩場に通い、各地へクライミングトリップに出かけるのが楽しみ。日本山岳ガイド協会認定フリークライミングインストラクターでもあり、クライミング講習会も行なっている。

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