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大叔父の足跡をたどって~その4~本人や父、祖父から聞いた話と史実から浮かび上がる足跡|筆とまなざし#457

浜の絵を描きたくて

翌日、朝一番のバスで上山さんと出会った浜へ向かった。浜の絵を描きたいと思ったからだった。車内から見上げる空は曇っていたが、浜に着くと清々しい青空が広がっていた。明るい日差しが白い砂浜をさらに鮮やかに映し出している。潮は昨日よりも満ちていて、大きなリーフができていた。日向は暑いくらいだ。木陰に座り、スケッチブックを取り出した。

外内さんから『日本特攻艇戦史−震洋・四式肉薄攻撃艇の開発と戦歴』(木俣滋郎著、光人社)を紹介していただいた。大叔父のいた第111震洋隊のことが書かれているという。後日、その本を開いて驚愕した。冒頭にはこう書かれていた。

「長さ五メートル余りのベニヤ板張りのモーターボート。これに爆弾をつけて体当たりしようというのである。エンジンはトラックのものを流用した。……(中略)……飛行機にくらべると、安価で生産も容易であり、操縦法を学ぶのはさほどむずかしいことではなかった」

ベニヤ板張りのモーターボート。それが震洋である。敗戦までに、じつに6,200隻が生産されたという。第111震洋隊には改良されたふたり乗りの震洋五型が配備されたというが、それとて長さが6.5メートルになっただけで基本構造は変わらない。無論、敵艦へ接近中に銃弾を浴びせられたらなす術もなく、爆発する。こんな粗雑かつ無防備な小舟で最期を迎えろというのか。

『日本特攻艇戦史』やほかの文献、父が大叔父や祖父から聞いた話を織り交ぜると、少しずつ大叔父の足跡が浮かび上がってきた。

本人や父の話、史実から浮かび上がる大叔父の足跡

年時は定かではないが、海軍飛行予科練習生(予科練)に志願した大叔父は、三重県津市香良洲町の予科練教育機関「三重海軍航空隊」に入隊し、厳しい訓練を受けることとなる。入隊に際し、祖父は軍刀を買って弟に手渡したという。その後、和歌山県の「高野山海軍航空隊」へ。この部隊の前身は三重海軍航空隊高野山分遣隊であり、三重海軍航空隊で教育中の特乙5期生から9期生までの全員が転隊したというから、そのなかに大叔父もいたのかもしれない。山岳地帯の聖地であるため米軍の攻撃を受けにくいと考えられ、昭和19年8月15日に設立された。宿坊や学校が接収されて軍事目的に使われたのだ。大叔父の母、つまりぼくの曾祖母は高野山まで面会に出かけている。航空隊と呼ばれたが飛行機不足で練習機はなく、陸上戦闘訓練や肉体労働が中心だったらしい。1944年12月中旬になると戦局の緊迫に伴い、新兵器である水中・水上特攻要員の募集が始まる。この新兵器のひとつが震洋だった。予科練生に紙が配られた。この水上特攻兵器による特攻を熱望する者は「◎」、希望する者は「◯」、希望しない者は「×」と記入せよ、というものだった。

震洋の訓練を受けるため、大叔父は長崎県川棚町の臨時魚雷艇訓練所へ向かった。戦局を挽回するため、数万にも及ぶ若者が全国から志願して集まり、魚雷特攻の訓練が行なわれたのである。昭和20年1月から2月にかけて、ここで編成された第111震洋隊のなかに大叔父がいたのだった。

昭和20年3月5日、奄美地方に米軍の上陸が予想されるため、佐世保で待機していた第111震洋隊は第40、第44震洋隊とともに第18戦隊として奄美へ送られることとなる。これは奄美大島緊急輸送作戦と呼ばれた。

敷設艦「常磐」に乗った大叔父たちだが、奄美へたどり着くまでですら命懸けだった。東シナ海に出ると米潜水艦に追われ、爆撃機にも狙われた。五島列島をすぎたころには海が大時化となった。しかし、この時化が幸いした。嵐を避けるため米潜水艦は海底深くに潜り、攻撃を免れたからだ。実際、第18戦隊より8日早く出港した第41震洋隊や2週間遅い第39震洋隊は米軍の空襲を受けて沈没した。また、第111隊の特攻艇の約半分も輸送中に爆撃を受けて沈没している。3月8日、「常磐」は無事に奄美地方へとたどり着く。第40震洋隊は加計呂麻島へ、第44隊は大島瀬戸内町へ、そして第111隊は喜界島小野津へ配備された。第111隊は大島防備隊の指揮下とされた。

5月末、米軍が喜界島に上陸する恐れがあるとの情報が入った。第111隊震洋隊の後藤隊長は島民を山に避難させた。島に駐屯していた陸軍が震洋隊と合流したが、米軍の上陸はなかった。陸軍の食事は島民同様にふかし芋が中心の粗末なものだったが、震洋隊の食糧は豊富だった。陸軍に銀めしを気前よく振る舞うと兵士から歓声が上がった。少尉にはウイスキーをご馳走したという。明日出撃することになるかもしれない特攻隊員は、食事には恵まれていたのだった。

敗戦に伴って緊急の島外脱出

7月下旬と8月上旬、米軍の上陸が予想され、震洋隊に特攻攻撃の即時待機命令が出た。8月14日にポツダム宣言を受諾するという情報が入り、15日に敗戦が伝えられた。

大島防備隊から後藤隊長のもとに緊急連絡が入り、特攻搭乗員を連れて速やかに佐世保に引き上げるように命令があった。震洋隊には搭乗員と整備員がいたが、搭乗員のみに急遽島外への脱出が指示されたのは、米軍上陸後のことを考えての措置だったのだろう。大叔父たちがいつ島を離れたのかは定かではないが、お世話になった島民への暇乞いもままならぬまま、大急ぎで大島防備隊に集結したという。

「あとひと月戦争が長引いとったら、俺はこの世におらんかった」

晩年になって大叔父が語った言葉を思い出す。

絵を描き終えるころにはすでにお昼をすぎていた。青い海と青い空。眩しい日差しが燦々と降り注いでいる。だれもいない静かな浜には、ただ穏やかに風が吹いていた。

著者:ライター・絵描き・クライマー/成瀬洋平

1982年岐阜県生まれ、在住。 山やクライミングでのできごとを絵や文章で表現することをライフワークとする。自作したアトリエ小屋で制作に取り組みながら、地元の岩場に通い、各地へクライミングトリップに出かけるのが楽しみ。日本山岳ガイド協会認定フリークライミングインストラクターでもあり、クライミング講習会も行なっている。

https://www.naruseyohei.com

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PROFILE

成瀬洋平

PEAKS / ライター・絵描き

成瀬洋平

1982年岐阜県生まれ。山でのできごとを絵や文章で表現することをライフワークとする。自作の小屋で制作に取り組みながら地元の笠置山クライミングエリアでは整備やイベント企画にも携わる

成瀬洋平の記事一覧

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