BRAND

  • FUNQ
  • ランドネ
  • PEAKS
  • VINAVIS
  • フィールドライフ
  • SALT WORLD
  • EVEN
  • Bicycle Club
  • RUNNING style
  • FUNQ NALU
  • BLADES(ブレード)
  • flick!
  • じゆけんTV
  • buono
  • eBikeLife
  • Kyoto in Tokyo
  • タビノリ

STORE

  • FUNQTEN ファンクテン

MEMBER

  • EVEN BOX
  • PEAKS BOX
  • Mt.ランドネ

アジア大会、半世紀前に自転車競技ロードレースを制した日本人を和歌山に訪ねた

ゴール前50メートル。攣(つ)った脚で、彼は中国の選手を逆転した。1978年12月、バンコク。アジア競技大会の自転車個人ロードレースで金メダルを獲ったのは、当時和歌山県職員だった27歳の仁平義高さん。オリンピックのアジア版とも言われるこの大会で、日本人がロードを制したのは、1951年の第1回ニューデリー大会で富岡喜平選手が優勝して以来、27年ぶりのことだった。今年、アジア競技大会が日本(愛知・名古屋)で開催されるのを前に、その仁平さんを和歌山に訪ねた。

1978年12月、バンコク。チームTTで優勝し、個人ロードも制した仁平義高

チームタイムトライアル(左)、ロードレース(右)の表彰状

日本を発つ日、乗り継ぎで降りた福岡には雪が降っていた。降り立ったバンコクは30度近い。

「着いた途端に『うわっ』と。とにかく暑かったです」と当時を振り返る仁平義高さん。

大会は12月開催。日本の冬から常夏へ、体は順応してくれない。個人ロードでは、ボトルケージに2本、さらに背中に1本を差して走った。飲むためだけはなく、頭からかぶって体を冷やすためだ。

じつはこのレースの前に、仁平さんはすでに金メダルを一つ手にしていた。大会前半に行われたチームタイムトライアル(当時のチームロード)で、西沢敏明選手、寺口克侍選手、岡堀 勉選手と組んで優勝していたのだ。つまりバンコクでの彼は、チームとしての結果を出したうえで、最後の個人戦に臨んでいたことになる。

スタート地点は、バンコクから150kmほどバスで移動した先の農村地帯。丘陵地帯を登り、折り返して戻り、最後は平坦。距離は185kmだ。日本チームのエースは西沢敏明選手。仁平さんの役回りは、そのアシストだった。監督から出ていた指示は明快だった。

「韓国の選手はすぐ仕掛けてくるから、それを全部マークしろ、と」

その通りになった。序盤、韓国勢が繰り返しアタックを放つ。日本の選手が交代でダッシュして捕まえる。30kmを過ぎる頃には、対応する日本チームは消耗していた。

「おーい、俺が仕掛けるからお前ら休んどけ」

集団はバラバラに散っていた。「これはちょっと、流れを変えないといけないな」——そう考えた仁平さんは、大声で叫んだ。

「『おーい、俺が仕掛けるからお前ら休んどけ』って。日本語ですから、周りの選手には分からない。でも集団の中で叫んで、味方に聞こえたかどうかも分からないまま飛び出したんです」

韓国の攻撃を捕まえた、その直後だった。

「行ったら、誰も追ってこなかったんですよ(笑)」

飛び出した形となった仁平さんはイラクとマレーシアの選手と仕方なくペースを落として走る。

「追いつかれたらそれでいいと思っていました。ところが後ろから、中国、韓国が1人、さらにイラクがもう1人。気づけば6人の先頭集団ができていました。こうなったら、離れるわけにいかない」

韓国もイラクも先頭集団に乗っている。後ろの第2集団は、その2か国と日本がコントロールする形になり、差は5分まで開いた。

「チームの力がなかったら、優勝はできていません」

攣った脚で、相手を「脅す」

折り返して120km地点付近にあった補給所。仁平さんが「ゴール勝負になったら苦労する」と最も警戒していた韓国の選手が、補給袋を受け取った。渡す側の人間が、止まったまま差し出してしまったのだという。

「韓国選手の袋が前輪に入ってしまった。私の目の前で、パーンと前転して」

一番怖い相手が、いなくなった。

「『大変やな』と思いましたけど……これも運と言ったら悪いけど、運の一つでしょうね」

仁平さん、イラク2人、中国、そしてマレーシアの5人になった逃げ集団が、山岳地帯から平坦に降りる。

「残り30〜50km。イラクのサレム・ワタンという強い選手が単独で飛び出したんです。誰も追えませんでした」

残された3人のうち、もう一方のイラクの選手は前に出ても速度を落とすだけで、実質的に牽かない。中国のジャン・ミン選手と仁平さんの2人でローテーションを回した。

やがて中国の選手が、仁平さんの脚が攣っていることを見破った。先頭交代して最後尾に下がったタイミングを狙い、スパートを仕掛けてくる。

「それを2回やられました。もうここで逃がしたら終わりだと思って、脚が攣ったまま必死に捕まえて」

そして、捕まえた直後に、自分から一発スパートを放った。

「また舐められたら困るので。走りながら相手を見ていて、『こいつ、こっちを舐めてかかってるな』と思ったら、脅しが必要なんですよ。自分がしんどくても、それで相手が減れば後が楽になる」

その後、中国の選手は静かになった。

前方には、単独で逃げていたイラクの選手がふらふらになって前から下がってきた。向かい風の一人旅で力尽きていたのだ。残り30km付近で吸収。これで警戒すべき相手は中国の選手1人だけになった。

「ロングスパートしてくれたら、ありがたい」

仁平さんは当時のフランス誌とナショナルチームのジャージを見せながら説明してくれた

残り2kmでイラクのアシスト選手がアタックを仕掛けるが捕まる。この動きでマレーシアの選手が脱落し、残るは4人。

仁平さんの脚は攣ったまま。ゴール直前に瞬発的なスパートを打たれたら、絶対につけない。

「なるべくロングスパートしてくれたらありがたいな、と思っていたら——」

残り1km、で中国の選手が再びアタックを仕掛ける。一気ではなく、じわじわと速度を上げていく形だった。

「『しめた』と。これなら、ちょうどいい」

仁平さんは中国選手の車輪の後ろに入る。あとは後方からの追い越しだけを警戒し、影を見ながら、脇を確認しながら踏む。残り100mを過ぎて、誰も出てこないと確信した。

「50mまで引っ張ってもらって、そこで差した」

185km、4時間49分27秒96。2位はサレム・ワタン(イラク)選手。その差、わずか1秒だった。3位にはジャン・ミン(中国)選手が入った。日本選手がアジア競技大会の個人ロードを制したのは、1951年の第1回ニューデリー大会以来、27年ぶりだった。

その第1回大会の優勝者は、日本大学在学中だった富岡喜平選手。翌1952年にはヘルシンキオリンピックの代表にも選ばれている、当時の日本の第一人者だ。これまでアジア大会の個人ロードで金メダルを手にした日本人は、2026年9月22日の時点ではこの富岡と仁平の2人だけである。

表彰台に立つ仁平さん。レース後の体重は55kgを切っていた

トラック選手たちが補給所で手渡してくれたサコッシュ

このレースを語るとき、仁平さんが必ず口にするのがチームの話だ。2〜3か所の補給所に、トラック競技の選手たちが2人ずつ配置された。車に乗っているわけではない。自分の脚で走りながら、サコッシュを手渡してくれたのだという。

一方、日本チームのチームカーは途中でパンクし、姿を消していた。他国の車に乗せてもらったりしながら、ようやく追いついたのだという。

「監督もコーチも選手も、大変なことの連続でしたね。あれで負けていたら、ちょっと顔向けできなかったです」

50年近く前のレースを、仁平さんは驚くほど克明に記憶している。

「勝った試合って、あまり覚えていないものなんですよ。でもこれだけは、ずっと残っている。苦しみながら走ったからでしょうね。本当に暑くて、脚は攣るし。最後に『うまいこといったな』と思って、ぽーっとしていました」

レース後、仁平さんは同僚たちに胴上げされた。

「胴上げは、本当に怖かったですよ。今は危ないからみんな押さえながらやるでしょう。トラックの選手はみんな力持ちですから、軽く上げているようでも、とんでもない高さで(笑)」

優勝を支えた「レース一発用」のクロモリフレーム

ホワイトパールに水色の帯。仁平さんのためだけに製作された一台が、今も自宅に残る

話題を少し変えよう。いま、仁平さんの自宅には、あのレースを走った一台が残されている。

作ったのは、当時ナショナル(現パナソニック)で競技用フレームを手がけ、日本代表スタッフとしてバンコクにも帯同した斧隆夫さんだ。

「それまでは人のフレームを借りて使っていたんです。アジア大会に出ることになってから、この斧さんの作ったフレームになりました。ブリヂストンの選手もシマノの選手もいたので、作ってもらったのは私だけです」

素材はクロモリ。だが、手に取ると異様に軽い。パイプは薄く削り込まれ、溶接痕は一切見えない。持ち上げた瞬間、アルミかと錯覚するほどだ。

その軽さの代償は、後年に現れた。

「引退してからしばらく乗っていたら、ラグが割れてしまって」

通常、割れるならフレームのパイプ側だ。ラグが割れるというのは、相当削り込んでいる証拠でもある。

「やっぱり、レース一発用に作ってくれたんでしょうね」

オーダーにあたって、仁平さんは細かい注文は一切しなかったという。

「私はそんな詳しい知識もなかったので。斧さんが作ってくれるなら、私にぴったりのものを作ってくれるだろうと。私の走りも見てくれていましたから、下手に注文をつけるより、うまくやってくれるだろうと思って」

塗装はホワイトパールに水色の帯。これも斧さんのデザインだ

引退試合がアジア競技大会、「だから頑張れた」

この1978年のアジア競技大会が仁平さんの競技生活の最後になった。

中央大学を卒業して和歌山県に採用され、4年目。県との最初の約束は「コーチとして選手の面倒を見る」というものだったはずが、選手不足から現役を続けていた。その年の初め、監督に宣言していた。

「『今年で引退します』と。それもあって、アジア大会では頑張れたところはありますね」

本来なら、長野県松本で開催された長野国体(やまびこ国体)の個人ロード2位で幕を閉じるはずだった。ところが、アジア競技大会代表に選ばれる。

「もう、辞めるわけにいかなくなった」

選考は仙台・名取CSCの短いコース、加えてロードコースの2本立て。仁平さんはタイムが良く、代表入りした。しかし他のメンバーを見て、躊躇した。

「一番上が25歳。あとは20歳、21歳。27歳は私ひとりですから、『辞退したほうがいいですか』と相談したんです。でも『記録で選ばれた以上、覆すことはできない』と言われました」と仁平さんは代表に選ばれた。

さらに、当時のアジアには、のちに加わる中央アジア諸国もなく、強豪イランも不参加だったのも幸運だった。

「イランは強いですからね。韓国、中国も強くなってきた中で、イランが出られなかった。とにかく私は、運が良すぎたと思います」

運が4つも5つも重なった、と水を向けると、仁平さんはこう返した。

「その代わり、苦しかったですよ」と当時を振り返る。アジア競技大会は国の代表であって、県の代表ではない。県職員としての「仕事の成果」は、あくまで国体の成績だ。

「県にも表彰はしてもらいました。ただ、仕事を休んで行くわけですから。私が休んでいる間、代わりに仕事をしてくれている人たちが苦労しているわけで。その人たちに『よかったな』と思ってもらえればいい、という気持ちはありました」

福島から和歌山へ、同郷の後輩・窪木一茂に受け継がれた軌跡

デンマーク・バレルプで開催されたUCIトラック世界選手権2024。男子スクラッチでは窪木一茂が金メダルを獲得 写真:日本自転車競技連盟

仁平さんが座っていた和歌山県職員の席は、のちにひとりの後輩へと受け継がれた。競輪選手でナショナルチームのトラック選手として世界の舞台で戦っている窪木一茂選手だ。

仁平さんは県立図書館の副館長として定年退職し、その後は嘱託で和歌山県のスポーツ課に3年間勤めた。そのとき窪木選手と隣の席で過ごしたという。

福島から和歌山へ。県職員として走り、国内で成績を残し、そして海外へ。同じ軌跡を、福島出身の先輩と後輩がたどっている。窪木選手は2023年 杭州でのアジア競技大会で団体追抜で金メダルを獲得し、さらに2024年の世界選手権自転車競技大会 コペンハーゲン大会では スクラッチで金メダルを獲得し、先輩を超える活躍をしている。

引退を決めた年の、シーズン最後のレース。攣った脚で、ゴール前50メートル。

1951年の富岡喜平、そして1978年の仁平義高。アジア競技大会の個人ロードを制した日本人は、いまもこの2人だけだ。仁平の金メダルから47年、まだ誰も3人目になっていない。自国開催となる第20回アジア競技大会(2026年・愛知/名古屋)に、期待がかかる。

仁平義高(にへい・よしたか)プロフィール

1951年、福島県西郷村生まれ。自転車競技をしていた長兄・次雄の影響で、福島県立白河高校1年の秋に競技を開始する。2年時の全国高校総体(広島)でチームロード2位。3年となった1969年には、全日本選手権4000m個人追抜(5分31秒90)と同団体追抜、全国高校総体4000m個人追抜(5分25秒09)、都道府県対抗団体追抜、国体団体追抜を制するなど、トラック中距離の全国タイトルを総なめにした。

中央大学進学後は、1年時に関東学生60kmロードで優勝、全日本選手権4000m団体追抜も制するなど、トラックとロードの双方で活躍。3年から千葉県登録に移り、4年時の1973年、地元開催の千葉国体1万mポイントレースで2位。同年の大学・高校・実業団対抗ではチームパシュートを制した。

大学卒業後、和歌山県に体育指導員として採用され、和歌山サイクルレーシングクラブに所属。指導者としての勤務のはずが選手不足から現役を続行し、1976年の全日本選手権4000m速度競走を大会新記録(5分01秒0)で優勝、同年の佐賀国体でも同種目を制したほか、全日本実業団対抗ではロード総合優勝を果たした。1977年1月のアジア自転車競技選手権(フィリピン)ではチームロードで金メダル(2時間37分32秒2)、同年6月の全日本選手権では4000m団体追抜を4分41秒10で制し、8月にはベネズエラ・サンクリストバルの世界選手権ロードに出場している。

引退を宣言した1978年、長野国体の個人ロードで2位に入り、最後のレースとなった12月のバンコク・アジア競技大会でチームロード(1時間17分43秒85)と個人ロード(185km/4時間49分27秒96)の2種目を制覇。アジア競技大会の個人ロードレースで優勝した日本人は、1951年第1回ニューデリー大会の富岡喜平と仁平の2人のみで、1978年以降は途絶えている。同大会を最後に現役を引退。以後は和歌山県職員として競技の指導・普及に携わり、県立図書館の副館長を務めて定年退職した。

SHARE

PROFILE

山口

Bicycle Club / 編集長

山口

バイシクルクラブ編集長。かつてはマウンテンサイクリングin乗鞍で入賞。ロード、シクロクロスで日本選手権出場経験をもつ。47歳を迎えた現在ではレースだけではなく、サイクリングを楽しむためために必要な走行環境やサイクルツーリズムなどの環境整備などにも取り組んでいる。

山口の記事一覧

バイシクルクラブ編集長。かつてはマウンテンサイクリングin乗鞍で入賞。ロード、シクロクロスで日本選手権出場経験をもつ。47歳を迎えた現在ではレースだけではなく、サイクリングを楽しむためために必要な走行環境やサイクルツーリズムなどの環境整備などにも取り組んでいる。

山口の記事一覧

No more pages to load